第17回 足利の時代から戦国時代へ
前回の続きです。一般民衆が、がんばってた証拠(?)がいくつかあります。みんなも知っている 言葉です。問丸、馬借、土倉、座、惣、寄合、もっと発展させると土一揆なんていうのもそうかな?
「問丸」は倉庫業・運送業者、「馬借」は馬を使った運送業者。「土倉」は高利貸し。「座」は同 業者組合です。(江戸時代には、同業者組合のことは、「株仲間」と呼んでいたね。) そして、「惣」と「寄合」は農村でのこと。「惣」は農村の自治のしくみ。「寄合」は農民の会合で
す。代表者を選んで、用水や年貢など重要な問題は、寄合を開いて決めました。また、「村のおきて」を作り、違反者はきびしく罰せられました。
「土一揆」は、農民が「年貢の軽減」や「徳政(借金帳消し) 」を求めて起こした反乱です。近畿 地方を中心に多く発生しました。中には、「国一揆」や「一向一揆」と呼ばれる、農民だけの反乱 ではないものも発生します。そのまま数年間にわたって自治をおこなったものや、守護大名を倒 してしまったものもあるんですよ。
「土一揆」は室町時代のもの。「百姓一揆」は江戸時代の農民、「打ちこわし」は江戸時代の町 人が都市でおこしたものです。間違えないように。
さて、八代将軍足利義政に話をうつしましょう。「義政」の頃になると、上述の「土一揆」などが盛んにおこり、政治が乱れだしました。プラス「義政」は自分の跡目争いに嫌気がさし、政治はしないよ、という姿勢をとります。そして、守護大名の勢力争いに将軍家の相続争いと管領家の相続争いが絡んで、応仁の乱が起こります。11年に渡り、京都の町は戦場になりました。もっとも、出陣した守護大名が、決着がついたのに、引くに引けずとどまり、ただ長引かせたようですが…。
「応仁の乱」がもたらしたものとして、大きく2つあげることができます。
ひとつは、みんなも知っている通り、下剋上の世の中になっていったということ。もうひとつは、 京都の町から地方へ、文化が流出したことです。
「下剋上」の世の中では、生まれなんて関係ありません。主従関係なんて関係ありません。強い者が、弱い者を支配していくのです。ですから、「応仁の乱」に参加して自分の領地での力が弱 っていた守護大名を、地元に強い家来が倒して戦国大名にのし上がっていきました。(「守護大名」から「戦国大名」になった者はわずかです。)
そして、「戦国大名」たちは、天下統一を夢みて、天皇のいる京都へ京都へと戦いながら進んでいくのです。
戦国時代の始まりです。(文化の流出については、次回話します)
☆☆ 今回の目標 応仁の乱がもたらしたものを理解しよう☆☆