第16回 勘合貿易はなぜ始まったのか?                                   

 

日本が中国と交流を始めたのは、古くは、「奴国王」でしたね。次が「卑弥呼」。そして、「聖徳太子」により「遣隋使」、「遣唐使」へと続き、平安末期には、平清盛が「日宋貿易」を行いました。鎌倉時代の「元寇」も交流のひとつ(?)でしょうか。そして、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、「倭寇」なるものが現れます。簡単に言っちゃうと「日本の海賊」。九州や瀬戸内海から、中国や朝鮮へ進出していきます。

 

 その「倭寇」を取り締まるべく政府公認の貿易=勘合貿易が行われるようになったのでした。相手は中国の「明」。政府公認だよ、という印として「勘合」という合札を使います。今でいう割り印。わからないかな? えっと、一枚の紙に文字を書いて、それを文字の真ん中から半分に切っておく。切ったもの同士をあわせれば、ちゃんとした文字になるけれど、違うものをあわせると、ずれたような字になる・・・といった感じのものです。

 

 やがて、その貿易は、山口県の大内氏や、博多や堺の商人の手にうつっていきます。(ほらほら、貿易をすると、もうかるでしょ。幕府じゃなくて、守護大名や商人が力をつけていくよ。)ちなみに、平清盛が行った日宋貿易も、この勘合貿易も、中国のお金を輸入しています。「宋銭」と「明銭」。お金を輸入するなんて、なんだかおかしいね。

 

 そもそも、古い時代は、お金がいらない「物々交換」でした。日本で発見されている一番古いお金は「富本銭(ふほんせん)」。ただし、これは使われていなかった可能性があります。次に古いのが「和同開珎(わどうかいちん)」。このお金は、708年に作られ、奈良時代に京都周辺で使われていたようです。この後、日本のお金は、みんなが勉強する中には、でてきません。豊臣秀吉が作った「天正大判」を先生から聞いたことがあるくらいかな?もちろん、江戸時代には、「大判」「小判」、有名なのでは「寛永通宝」が作られました。しかし、江戸時代でも、貨幣鋳造技術は未熟で、「藩札」という、各大名が藩内で通用するお札を印刷して使っていたのが事実です。そうそう、江戸幕府が「金山」や「銀山」を幕府の直轄にしていたのは、お金を作るのに必要だったということでもあるんですよ。お金を作る技術って難しかったんだね。

 しかし、今では、日本の技術、特に「紙幣」を作る技術は、世界最高レベルです。

 

 話をもとに戻します。勘合貿易と、銭が流通するようになって、日本に経済という世界が出来上がっていったのです。わかりにくいですね。つまり、商売でお金が動くようになって、世の中、お金がなければ物が買えない時代になっていったってこと。すると、お金をたんまり貯める大金持ちと、ぜ~んぜんない貧乏人がでてくるね。守護大名の中でも、貿易によってもうける大名と、貿易もできず、お米もあまりとれなくて貧乏な大名ができてきたんだ。後者のほうは、なんとかお金を稼ぎたくて、特産品を作るように指示します。どこにもない、自分の国だけのもの。こうして、今でいう、伝統工芸品が各地で開発されていったのです。

 でも、まだ、税は、「お米」で納めさせていましたけれどね。

 

 勘合貿易が、いつの間にか伝統工芸品になってしまいました。みんなに感じ取って欲しいのは、「室町時代あたりから、世の中のしくみや価値観が変わっていったよ」ってこと。上に立つものばかりが、力があるわけじゃない。一般民衆よ、がんばれ!!

 

☆☆ 今回の目標  時代の変化を感じ取ろう! ☆☆