第8回 やっと奈良時代だぞ!
奈良時代の始まりは710年。次にくる平安時代(794年)までをいいます。律令政治が行われ、天平文化が栄えました。
奈良時代で覚えておく言葉は、聖武天皇、大仏、正倉院、国分寺、班田収授法、口分田、租調庸、三世一身法、墾田永年私財法、古事記、日本書紀、万葉集といったところ。
さて、元明天皇が奈良に都をつくりました。「唐」の「長安」の都をまねて、碁盤の目のように道が走っています。北中央には平城宮。天皇の住まいである内裏や役所があります。メインストリートは朱雀大路。平城宮からみて、右側(西)を右京、左側(東)を左京といいます。次の平安時代の都である「平安京」もほぼ同じつくりで、現在の奈良市や京都市もそのまま碁盤の目のようになっています。
元明天皇の次に覚えておく天皇が、聖武天皇。東大寺・国分寺・国分尼寺をつくりました。国分寺と国分尼寺は、各地方に建てられたお寺。だから、いくつも存在します。その総本山が東大寺。そこには、大きな大仏が造られました。高さ16m。この巨大な大仏を造る労働力などを集めてきてくれたのが、民衆の信頼が厚かった「行基」というお坊さんです。なぜ東大寺や国分寺を造ったかというと、聖武天皇は、仏教の力をかりて、はやり病等をなくし、国を治めようと考えたからでした。聖武天皇の遺品などをおさめた東大寺の倉庫を「正倉院」といいます。「校倉造」といって、ログハウスのように三角形の木材を重ねて造ってあります。「正倉院」には、当時の「シルクロード」(中国とヨーロッパを結ぶ道)を通って伝わったガラスの器なども収められています。
奈良時代では、土地制度が確立されました。まず「班田収授法」。6歳以上の男女に口分田を与え、その人が死亡すれば国に返させました。次が「三世一身法」。新しく水田を作ったものには、その後三代にわたって、その口分田の所有を認めるというものです。そして、最後は「墾田永年私財法」。新しく土地を開墾して田を作ったものは、永久にそれを私有してよい、と定められました。そう、だんだん年数が延びていくね。こんな法律をだした目的は、税(お米など)をしっかり取り立てるため。「なぜ?」って、田畑をもたない朝廷やお役人たちが食べるものを手に入れるためですよ。その税が、租・調・庸・雑徭です。「祖」はお米。「調」は特産物。「庸」は労役にかわって麻布。「雑徭」は労役。それと、全員ではないけれど軍隊にはいって訓練を受けた人たちが、「防人」や「衛士」となって、北九州や朝廷を守る義務もありました。
このように、一生懸命お米を作っても、税としてとられてしまうので、農民は、とても貧しかったのです。それを書いたのが、「山上憶良」の「貧窮問答歌」です。
海草のようなぼろしか着られず つぶれそうな傾いた家のなかで 地べたにわらを
しいて・・それなのに むちを持った里長が税を出せと戸口でわめいている・・・
そして、田んぼが私有できるようになったことから生まれたのが、平安時代の「荘園」です。
☆☆ 今回の目標 「税」の種類を覚えよう ☆☆