第36回 イギリスとの関係

 

 日本とイギリスの関係は、1600年にウィリアム・アダムス(三浦安針)が日本に漂着し徳川家康の外交顧問になったことに始まり、鎖国を経た後、日米和親条約締結後に、イギリスとの間で2つの条約がかわされました。日英和親条約と日英修好通商条約です。

長崎と函館の2港を開きましたが、これらの条約は、対アメリカのものと同じで、日本にとって「不平等」な条約でした。

 

  1863年   薩摩藩士がイギリス人を殺してしまう生麦事件がおこり、その決着

          をつけるため、薩英戦争がおこりました。

  1863年   下関戦争

  1894年   日英通商航海条約・・・領事裁判権撤廃

  1902年   日英同盟                   

  1914年   第一次世界大戦

 

 1863年の下関戦争は、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4カ国の連合艦隊と長州藩との戦争です。戦争とはいうものの、長州藩は、あっという間に下関砲台を占拠されて負けてしまいます。薩英戦争と下関戦争で、外国の力をまざまざとみせつけられた薩摩藩と長州藩は、「攘夷」をやめ、「倒幕」へと変わっていきます。

 

 1894年に結んだ「日英通商航海条約」で初めて外国に対し、領事裁判権を撤廃することができました。この条約の名は覚える必要はありませんが、「領事裁判権の撤廃」成功と、この条約を結んだ外務大臣陸奥宗光だけは覚えておきましょう。

 

 さて、1894年におきた日清戦争のあと、ロシアは、東アジアへ進出しようとします。一方イギリスは、アヘン戦争後、中国へ進出していました。ロシアの進出を阻止したいイギリスと、同じくロシアの満州・朝鮮への進出をさえぎりたい日本は、利害関係が一致し、日英同盟を結んで協力することにしました。(日本は、後日、この日英同盟を理由にヨーロッパで起きた第一次世界大戦に参戦するのです)日英同盟は、第一次大戦後に開かれたワシントン会議まで続きました。

 

 イギリスと日本の関係は、最初はイギリスの方が優位でしたが、やがて対等になっていきました。他のヨーロッパ諸国に対しても同様です。イギリスとの領事裁判権が撤廃されると、他の国との領事裁判権も撤廃されました。

 

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