第29回 とうとうやってきました黒船
太平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も眠れず
ペリーがやってきた時の人々の動揺を皮肉った歌です。(上喜撰は、高級なお茶です。黒船の「蒸気船」とかけています) 1853年、アメリカのペリーが「黒船」に乗って浦賀にやってきました。今の横須賀です。
このとき、明治天皇1歳。徳川慶喜16歳。そして、坂本竜馬19歳。幕末に活躍した武士たちの中で、一番年上の勝海舟でも30歳。精神的にゆらぐ年頃の竜馬たちにとって、黒船の来航は、そうとうショッキングなものだったのに違いありません。この後、世の中が大きく変わっていったのもうなずけますね。
1854年 日米和親条約、1858年 日米修好通商条約 幕府は、2つ続けてアメリカと条約を結びます。「鎖国」の終焉です。これを世界は待っていました。東南アジアへ進出してきていたイギリス、フランスなどとも条約を結びます。
覚えたいことは、
日米和親条約:下田、函館の開港 食料や燃料・水の補給
日米修好通商条約:神奈川、函館、長崎、新潟、兵庫の開港・総領事ハリス、大老井伊直弼・ 関税自主権がない、領事裁判権を認める
です。他の国とも同じような不平等条約だったのです。(この不平等が完全に解消するのは、1911年明治最後の年のことです)
大老井伊直弼は、朝廷の許可なく、日米修好通商条約を結びます。それによって、外国を排除し(攘夷)、天皇を敬う(尊皇)人達から批判されたので、井伊直弼は、吉田松陰や橋本左内ら尊皇攘夷論者を処刑します。「安政の大獄」です。その報いは、「桜田門外の変」となってかえってきます。1860年、井伊直弼は暗殺されてしまいました。「大政奉還」の7年前です。
さて、ここで、「関税自主権」と「領事裁判権」について説明しましょう。この言葉は、結構覚えている人が多いのですが、内容はわかりますか?
「関税自主権」は、外国のものを輸入するときに、国内産業の保護のため、安い外国産のものに税金をかけて、国産のものと外国産のものとの価格を同じにする権利のことです。これが「ない」のですから、日本は、外国の言いなりの値段で買わなくてはなりません。外国の安いものが国内で販売されると、人々は安いほうを買い、国内で同じものを作っている会社はつぶれてしまいます。 一方外国は、日本からの品に関税をかけて自国に輸入します。この点が不平等なのです。
「領事裁判権」は、外国人が日本で犯罪を犯したときに、日本にある「領事館」が本国の法律で裁判する権利のことです。これを「認める」ということは、犯罪を犯した外国人は有利になります。日本で裁くより軽い刑ですんでしまうかもしれません。本国へ戻しただけで終わりなんてこともあったりして・・・。その点が不平等なのです。
とにかく外国の方が、政治・経済・武力、その他あらゆる面で進んでいましたから、すっかり日本は外国の言いなりになってしまったのですね。それでもラッキーだったのは、武力による攻撃を受けず、植民地化されなかったことでしょう。色々調べてみると、日本が鎖国体制の中でもオランダを通じてヨーロッパと貿易をしていたこととか、日本の高い技術が外国に紹介され、一目おかれていたことなどが、植民地化されずに済んだ理由のようです。
この後、尊皇攘夷の思想は、様変わりをしていきます。それは次回に。
☆☆ 「黒船」から受けた精神的ショックを想像しよう ☆☆