第15回 どっちがかしこい ? 後醍醐天皇と足利尊氏


さてさて、鎌倉を攻めた後醍醐天皇ですが、一回目は失敗に終わります。もちろん、島根県の隠岐に流されました。えっ、知らないって? 地図帳を開くと、島根県の上の方に離れて浮かぶ島が「隠岐」ですよ。後醍醐天皇ここから脱出するんです。

 

 1333年、足利尊氏や新田義貞(上毛カルタにでてくるね)らの力を借りてとうとう鎌倉幕府を倒します。そして、自分が中心となって「建武の新政」を行います。しかし、公家中心の政治であったために、武士たちの不満を買い、あっという間に足利尊氏に追いやられてしまったのでした~。 奈良県の吉野に逃げた後醍醐天皇は、そこで、「南朝」を立ち上げます。足利尊氏は、京都に新しい天皇の「北朝」を立てます。つまり、どっちも「こっちが正式な天皇だ!」と主張しあったわけ。どっちにしても、征夷大将軍の名前をもらった足利尊氏が、1338年に幕府を開いて、政治を行うんだけどね。

 

 このように、政権奪回をねらった天皇は、結局目的を達成できずに、この後、室町~江戸へとなが~~い間、武士に牛耳られることになってしまいました。チャンチャン!

 

 南北朝を統一したのは、第3代将軍の足利義満です。義満は、京都の室町で政治を行いました。(だから、室町時代というのです) 南北朝の統一、金閣、勘合貿易、北山文化、これらを「義満」の名前と一緒に覚えておくことですね。

 

 ここで、室町幕府のしくみを紹介しましょう。鎌倉幕府は、将軍の下に執権がいましたよね。室町幕府では、「管領(かんれい)」といいます。「管領」の下に、鎌倉幕府と同じく「侍所」「政所」「問注所」があります。また、「鎌倉府」という役所を設けました。室町幕府は、京都で政治を行うので、「鎌倉」を監視する役所をおいて、関東地方を支配したのです。

 「守護」と「地頭」の立場は、鎌倉時代とはちょっと変わります。鎌倉時代では、対等な立場でしたが、室町になると、「守護」は「地頭」の上の立場になります。そして、後の「守護大名」に成長していくのです。

 

 「戦国時代」って「室町時代」の中にはいるんじゃないの? と思っている方、そうですね、「戦国時代」は「室町時代」の最後の約100年くらい(応仁の乱の後、室町幕府が滅びるまで)をいうのですよ。「室町時代」というのは、「室町幕府」というしっかりした政治体制があってついた名前ですが、「戦国時代」というのは、ちょっとつけ方が違いますよね。これは、その時代にそう呼んでいたのではなくて、後世の人がつけた名前ですから、時代の体制が変わったのを象徴して、この辺が「戦国時代」じゃない?とついたような気がします。「飛鳥時代」だって、「古墳時代」の一部じゃないの?という感じですよね。この際、あまり細かいところにはこだわらず、「ふ~ん、そうなんだ」と思ってください。気になる人は、大学に行ってから研究してみたら?

 話が脱線したところで、今回は終わりにします。室町時代については、これから、まだまだ話しますよ。

☆☆ 今回の目標  「管領」を読めるようにしよう ☆☆