第14回 北条氏の執権政治の世の中


源実朝(3代目)が亡くなると、京都にいる後鳥羽上皇 が巻き返しを図ります。それが、承久の 乱。 
○○の乱というのは多いから、注意して覚えてね。 

(1) 天智天皇の後の後継者争い 「壬申の乱」 飛鳥時代

(2) 地方の武士の反乱 「平将門の乱」 平安時代

(3) 平氏と源氏の戦い 「保元・平治の乱」 平安時代 

(4) 後鳥羽上皇の巻き返し 「承久の乱」 鎌倉時代

(5) 守護大名の争い 「応仁の乱」 室町時代

(6) 大阪の元役人の反乱 「大塩平八郎の乱」 江戸時代

 
 さて「承久の乱」のときに尼将軍が御家人たちに言った言葉が有名ですが、それはどんな内容 だったでしょうか。
鎌倉時代の将軍と御家人の関係を表した言葉が「御恩と奉公」です。政子は「いまこそ頼朝公 の御恩に報いるとき」といった内容の演説をします。これによって、御家人の結束を固いものにしたのでした。これが、北条氏の時代を長く続かせた基だったのかもしれないと、私は思います。こ ういった土地を仲立ちとして、主従関係を結ぶ制度を「封建制度」といいます。この制度は、日本に限ったことではなく、世界各地の歴史の流れのなかで、必ず通る道ですので、頭の隅に記憶しておきましょう。

 

さて、あっさりと後鳥羽上皇を退けた北条氏。京都をしっかり見張るために、「六波羅探題」を設置します。江戸時代にでてくる「京都所司代」とか「大阪城代」も、朝廷や豊臣家を見張るための役所だったのですよ。


 この後の執権で覚えておいてほしい人が2人います。ひとりは、「北条泰時」。もう一人は「北条時宗」です。
 北条泰時は、武士の最初の法律を作った人です。それが御成敗式目です。御家人の権利や義務 、領地のこ と、 裁判のことなどを定 めています 。 戦国時代 の「 分国法 」 や 江戸時代の「武家諸法度」はこれにならったのでしょう。 
 北条時宗は、 元寇のときの執権です。その頃中国を治めていた「元」。その長である「フビライ=ハン」は2度にわたって日本を攻めてきます。「文永の役」と「弘安の役」です。このとき、日本に「神風」が吹きます。実際には、台風がきたらしいですけどね。(ここからきているのかなぁ、太平洋戦争時の神風特攻隊って?)それによって、日本は2度も難を逃れます。しかし、このときの「元」の集団戦法と火薬がには、日本は苦労したようです。

 
元寇のときの奉公に対して、御家人へ「御恩=恩賞」(ご褒美)を与えますが、それが十分でなかったために、御家人たちは、借金をし始めます。それでも苦しい御家人の生活。そこで、北条氏は を「徳政令」だして、御家人の借金を帳消しにするのです。(武士だけずるいよね。)しかしご 御家人の不満は大きくなり、北条氏の権力がぐらつきだしました。そこをすかさず攻めたのが後醍醐天皇です。この話は、次回に・・・。


☆☆ 今回の目標 2人の執権の名前を覚えよう ☆☆